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ただいま
souginohi.jpg
葬儀を終えて帰京後すぐにmixiに書いた日記を、加筆修正の上で転載しようと思っていたのだけど、父の死から約一ヶ月。落ち着きも日常も取り戻しつつある昨今、余計なことを書き加えてしまうのもなんだなと思い、必要箇所以外は敢えて修正などしないことにした。


深夜バスに乗って、今朝早く東京に戻ってきた。
ゆっくりと明けゆく東京の空は、狭くて低いけど、不思議と懐かしい気がした。

2日の夜、姉からの電話に嫌な予感がした。
帰宅直後に、三十年近くも故障しなかったテレビがついに壊れ、15万キロも走行した車の悲鳴が止まなくなり、玄関のドアも急に閉まりにくくなったり、桜草の鉢も割れたりして、悪い予感を打ち消しても、打ち消しても、次々とそういうことが起こった。

病名は、「特発性間質性肺炎」。とは言っても、普通の肺炎とは異なる。肺炎は感染によって肺胞内部が炎症を起こすのだけど、この病気は、何らかの原因によって肺胞の外枠部分が炎症を起こす病気。

本人でさえ「どうしてこんなことになってしまったんやろのう…」と理解に苦しむほど、特発的な病気で、病状は日を追う毎に悪化し、十日間の激闘の甲斐なく、父はこの世を去った。

何年も苦しむ人に比べれば、十日間なんてあっという間だと思うけど、せっかちな父にとっては、充分長く、苦しい闘病の日々だったと思う。普段から山歩きなどで身体を鍛えていたせいで、とても77歳とは思えない超人的な体力は、医師たちも驚愕の声をあげていた。でもそのせいで、苦しみが長引いてしまったのは、本人にとっては皮肉なことだったかもしれない。

最期の日、既に意識はなかったのだけど、酸素マスクをつけた父の流した一滴の涙と、いつの間に入り込んだのか、ベッド脇のテレビの上から、糸を手繰ってするすると天井に登っていった小さな蜘蛛が、ちょうど父の頭上付近で、そのときを待っているかのようにじっと動かなくなったのが印象に残っている。

「延命措置は行うな」「葬儀・戒名・一切の法要も無用のこと」「仕方なく香典を戴くことになった場合は、然るべきところへ寄付すること」というのが父の遺志。遺される人間への、最大限の配慮だと思う。完璧に遵守することは難しい部分もあるけど、父の気持ちをできるだけ汲んであげたい。

という思いはあったのだけど、実は早々に父の遺志に反することを、通夜の席でしてしまった。

父は常に小さな手帳を持ち歩いていて、忘れてはいけない日々のことなど書き記していた。車の助手席で父がそれを捲る度、毎度耳の痛い説教が始まってしまうので、自分としては少し疎ましい手帳だったのだけど、父が亡くなる直前に、失敬して読ませてもらった。

表紙を捲った1ページ目に、恐らく晩年の父のモットーだったであろう

「一生懸命、いいかげん」

という言葉が記されており、いきなり目頭が熱くなった。他にも、一緒に山を登る途中に口にしたことはあったけど、結局本人には伝えないまま逝ってしまった母への、「自分と結婚してくれた軽率さに感謝。そして50年間ありがとう、すまなかった」という言葉。そう、来年3月で金婚式だったのに…。

その手帳の中に、父が創作した戒名が走り書かれていた。戒名不要と言いながら、自分なりに考えてみたりしたようだ。

「愚良院愛花愛山居士(ぐりょういんあいかあいざんこじ)」

因みに「良」は、父の名前に含まれている一文字。先日の日記でも少し触れたけど、父は花と山を、こよなく愛した人だった。ふざけて作ったにしては語呂もいいし、よく出来ていると思う。だから、父の遺志に背くことにはなったけど、家族親戚一同の賛成を得、葬儀屋さんの協力も戴いて、ちょっとした位牌にその戒名を書いてもらい、通夜の間だけ、父が育てた花と一緒に供えることにした。そして、遺体とともに、荼毘に付すことに。

死亡時刻や、間に友引が入った関係で、亡くなってから通夜、葬儀までの間にぽっかり一日時間が空いた。叔父の厚意で、少し外の空気を吸わせてもらうことに。天気がよかったので、双海の夕陽を見に行った。海に沈む真っ赤な夕陽。そして振り返れば、切り立った山のそばに満月。なんとも美しく暗示的なシンメトリーに、声を失った。

通夜では喪主を務めた。これも父の遺志で、お坊さんも呼ばず、本当に質素な通夜だった。父が大好きだった「ロシア民謡」と「加藤登紀子」の曲を流しながら故人を偲び、最低限の短い挨拶を一言二言。でも、葬儀社の女性は「こんな素敵な通夜は初めてです」と言ってくれた。納棺の際には、ほぼ全冊揃えていた藤沢周平の著作から数冊と、お気に入りだったイタリア製の帽子、登山靴なども一緒に。あっちにも、美しい山がたくさんあるといいのだけど。

通夜から降り出した雨は、翌日にはすっかりやみ、雲ひとつないとは言わないまでも、紅葉の山々に囲まれた火葬場の空は、どこまでも高く、澄み渡っていた。

骨を拾い、すぐ近くのお墓に納骨に。遺言通り分骨してもらったので、年末か、来春にでも、「皿が峰」の麓に父が植えた、ライラックの木の根元に散骨に行こうと思う。ライラックは母の大好きな木で、「皿が峰」は父が一番よく登った山。

あとは、今夏天候不順で結局登れなかった山形の「鳥海山」へも散骨に行こうと思う。父が苦しみながらも最後まで生きる気力を保ち続けられたのは、回復して、息子と「鳥海山」登るのだという望みを捨てずにいたから。生前には果たせなかった約束。でも必ず連れて行くから。父の憧れの山、「鳥海山」。

それにしても、日常なんて、あっけなく、あっという間に壊れてしまうものだ。先月は「皿が峰」に登ったらしいし、先々月には西日本最高峰「石鎚山」の登頂を果たしたというのに。親父の背中に話しかけながら、山を登ることはもう叶わない。まだまだ聞きたいことが、山ほどあったのに。家にも庭にも車にも、父の面影がいまだ色濃く残っている。耳をすませば、今にも父のよもだな伊予弁が聞こえてきそうなのに。こんな中で一人暮らしていかなければいけない母を想うと、胃がキリキリと痛む。

父急逝の報せを聞いて、親戚連も、近隣の住民たちもが号泣していた。父がいかに慕われ、愛されていたのかが、改めてよく分かる。彼らはきっと母の支えになってくれると思う。だけど、憎まれ口を叩く相手はやっぱりもういないわけで。でもどうか、父のことを想って弱くなったり悲しくなったりするんじゃなくて、父を想って強く優しくなれますように。時間はかかると思うけど、いつかきっとそうなりますように。

親不孝街道を突っ走り、孫の顔どころか、結婚すらしていない自分。親孝行、したいときにはとよく言うけれど、あまりに急過ぎるよ。

東京の父と慕ったFさん、Kさんが相次いで亡くなり、今度は実の父まで逝ってしまった。まともに褒めてもらったこともなく、いつかきっと見返してやろうと思って頑張ってきたのに。

昨日は、帰京直前の短い時間だったけど、母と姉と、父の若かりし頃の写真を見ながら、父を偲ぶことができた。職場で何人もの女性ファンがいたという青年期の彼は、確かに格好良く、労組の長として「天皇」とまで仰がれた彼の顔は、自信と活力が漲っていた。父のように誠実に、実直に。そんな生き方を貫き通すのは、簡単なようで、実はとても難しいこと。だからこそ誰もが彼を尊敬したし、息子として父を誇りに思う。

今、死をとても身近に感じる。だからこそ、今までよりももっともっと、一日一日を大切に生きなければ。人は人によって支えられている。だからこそ、今までよりももっともっと、強く優しくならなければ。そんな当たり前のことを、今更ながらに思うのだ。改めて。
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