*All archives* |  *Admin*

2008/12
≪11  1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11  12  13  14  15  16  17  18  19  20  21  22  23  24  25  26  27  28  29  30  31   01≫
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
百日紅
sarusuberi.jpg
霊標の代金を支払うために墓地へ寄り、買い物をしてから、夜は絶対混むと思ったので、早めに母と温泉へ。長距離バスの疲れが取れないので、マッサージもお願いして帰宅。そして一息つく間もなく、折角汗を洗い流した後なのだけど、一人山歩きに出かける。

天候不順や体調不安で、高い山に登ることはできなくても、帰省時には極力父と一緒に歩きに出ていた。「ちょっと歩きに行くぞ」と言っても、その「ちょっと」は2時間や3時間はぶっ通しで歩き続けることなるわけで、しかも小高い丘やら峠なんぞをすいすい歩く父に着いていくのは結構大変。

健康維持というより、登山本番のためのトレーニングとして、ほぼ毎日のように2~3万歩は歩いていた父。「散策」というよりは「探索」の体で、家周辺の山はもちろん、4、5キロ離れたところの山まで方々歩き回った父は、けもの道的な脇道にも精通しており、道なき道を踏み入ったかと思うと、「あっ!」と声をあげてしまうほど予想外の場所に辿り着いたりして、何度も驚かされてしまったものだ。

そんな父と歩いた道を、記憶を辿りながら、一人で歩いた。父のように、ふいに現れた横道を分け入ってはみるものの、行き場を失って引き返したり、小さな野良猫に導かれて進んだけもの道が、道後の歓楽街に続いていたり。

でもやっぱり、一人で歩くのは、本当に寂しかった。目の前を歩いていた、いつも追いかけていた父の背中が、ない。「父さん」といくら声をかけても、返事はない。薄暗い山道に、他に人影があるはずもなく、涙声になりながらも、語りかけ続ける。でも不思議なのは、そうやって語りかけた直後に決まって雨が降るのだ。ほんの数十秒だけ。夕立のように。傘なんて持たずに出たから一瞬焦るのだけど、鬱蒼と生い茂る木々がその役を果たしてくれるから、ほとんど濡れることはない。雨が止んで、しばらく歩いて、また語りかける。そうすると、また雨が降り始める。本当は、この道をまた一緒に歩きたかったんだろ。いや、違うか。こんな頼りない息子を遺して逝ったことを嘆いて泣いているのか。こういうことが幾度となく続いているうち、やがて陽は落ち、心配した母から携帯に電話がかかった。気がつけば、もう3時間以上も歩いていた。「もうすぐ帰るから」そう言って、足早に家路につく。

途中、瀬戸風峠から眺めた松山城と、瀬戸内の海を真っ赤に染める夕日が美しかった。その絶好スポットの足下に、恐らく父が植えたであろう百日紅の木が根を張っていた。父の大好きな真夏に花を咲かせるべく、懸命に冬を越そうと枯葉を纏って。
スポンサーサイト
春待ち人
091230.jpg
予定時刻より少し早い午前10時ちょっと前に松山駅に到着。身体中、特に臀部が痛い。14時間も狭いシートに座りっぱなしじゃ当然か。

寒空の下、1時間に2本しか出ないバスを待ち、上京後初めて一人での帰宅。松山に戻れば空港にも駅にも、必ず父が迎えに来ていて、運転を交代して家に帰るのが当たり前だった。

東京のように均一運賃前払いじゃないので、降車間際に慌てて両替などしていたら、400円払えばいいのに、千円を両替した残額の600円を運賃箱に入れてしまった。小学生の頃、塾通いで当たり前のように乗っていたはずなんだけど。

実家に着いて、着替えだけ持ってすぐに温泉へ。湯の入れ替えが終わったばかりのまだ人の少ない露天の湯船にゆっくりと浸かり、青い空を悠然と横切る雲を見ながら、二十日前には生きていた父を想う。

再度帰宅後、満州で女中が作っていた家庭料理を祖母が真似、それを母が教わって作った「チャゲタ」を食べる。友人に聞いてもそんな料理は誰も知らないが、今となってはウチの欠かせない定番料理であり、家族全員大好物。

食べた後、お墓へ。戒名のない父は、霊標に本名のまま記されており、生前赤字だった名前も黒く上塗りされていた。父の墓前では、母も姉も決して手を合わせない。例の歌じゃないけど、遺骨は納められているとしても、父がそこに眠っているとは誰も思っていないからだ。いるとしたら、家か、庭か、もしくはその辺の山でも歩いているか。だから花と茶碗の水だけ取り替えて、早々に立ち去る。

車があるうちにと大量の買い物をし、夕飯は父が入院中、看病の帰りに寄った「耕庵」でうどんと天むすを。少しずつ、父がいない食卓が当たり前になっていく。早食いで、食事時にゆっくり話をするような父じゃなかったけど、いるべき場所に、いるべき人がいないということが、料理の味まで変えてしまう。

帰宅後、相米慎二監督『あ、春』を観た。立ち止まってしまう家族。その夫の元に、三十年ぶりにふいに現れる父親。母に薦められて一緒に観たのだが、こんなの今観たら辛いだけだろうにと横目で見ると案の定泣いていた。『おくりびと』も素晴らしかったが、父親役の山崎努の名演が光る。いい加減なようで、自分の中に一本しっかりと筋が通っている。無骨で、不器用で、人に迷惑ばかりかけるのだけど、憎めない。父は決して無骨な人ではなかったし、他人に迷惑をかけるような人ではなかったけど、家族に対する愛情表現は下手な人だった。欠点だらけで、でもだからこそ人間らしくて愛らしい。春は、まだまだ来ないのだろうか。
go back again
kirakira.jpg
年末年始休業の段取りを整え、諸々片付いたところで正午前に退勤。毎年29日はこの後大井へ向かうのだが、今夜帰省の準備も出来ていないし、気分も乗らないので、渋谷で買い物をして帰宅。

身体がダルくて、夕方まで寝てしまい、慌てて鞄に荷物を詰め込んで出発。新宿西口から派手に赤い深夜バス、その名も「キラキラ号」に乗って14時間の長旅。幸い、最前列で隣の席が空席だったので、荷物を置いて足元のスペースは確保できたが、肝心のシートが狭い。小一時間座っただけで腰と背中がしんどい。眠らないわけにはいかないだろうが、翌朝が心配。
有馬記念2008
arima2008.jpg
この日のためにテレビが設置された「桃園文庫」で、有馬記念を楽しむ。大本命は12着に沈み、年度代表馬候補の牝馬2頭の一角、ダイワスカーレットは圧勝したが、殿人気のアドマイヤモナークが2着に突っ込み、3連単は100万円に手が届きそうな大きな配当。でも馬券は外れても、悔しいどころか逆に爽快感さえ覚えるのが、グランプリの不思議なところ。「もう来年は」とは思わずに、「来年こそは」と思ってしまう悲しき性。
still confused
マスピ土田くんと待ち合わせ、いつかライブをと企んでいる「cafe studio」へ。貸切でイベント中だったが、快く話を聞いてくれた店長にデモ曲のCDを渡す。

千駄木へ向かう途中、土田くんの案内で本郷の大きな楠を見せてもらう。高さ24メートル、幹の太さは9メートル。樹齢はなんと600年。昔、楠木正成の子孫である旗本の屋敷があったとかいう歴史もすごいけど、都心の、マンション前の小さな敷地に、これほどの大樹が残されていることが驚き。冬なのに青々としたたくさんの葉をつけて。
マンションの1Fには「PAISIBLE」という(以前は「楠亭」という名前だったらしい)フレンチレストランがあるのだけど、これがまたいい雰囲気。いつか来店してみたい。

千駄木に着いて、久しぶりの「Rainbow Kitchen」へ。相変わらず激美味のアボカドバーガーを頬張りながら、今月あった出来事について、そして今思うことなど、とりとめもなく話す。まだ頭の中が全然整理できていない。
Come to the point
招待してもらえるというので、本多劇場で公演中の竹中直人主演の舞台『三人の女』を観てきた。話をくれた人間は先に観て、自身のブログに「辛かった」と感想を書き、その連れも爆睡したという芝居を何故にと思わなくもなかったが、折角なので心して劇場に向かう。

が、やはり途中寝てしまった。竹中さんはもちろん、他のキャストも悪くなかったのに(滑舌悪くカミ過ぎな役者も一人いたが)、意図的とはいえ、あの回りくどい台詞はイライラを通り越して眠くなる。気持ちを「単刀直入」に言うことが必ずしもいいとは思わないし、自分自身意見や感情をストレートに表現するのはどちらかというと苦手な方だが、故意であるないに関わらず、物事をはっきり言わないことの弊害は相当大きいのだなと。あと、台詞が長いのと回りくどいのでは全く違うのだなという、勉強になりました苦笑
enough...
仕事後、イヴには凡そ似つかわしくない、労使交渉に向けての打ち合わせ。ま、和やかなムードで楽しい会合だったからいいんだけど、ケーキも出たし(今日2個目の)。

出来れば通りたくなかった聖夜の表参道を歩いて、前回からお願いしているMさんに、移転新装なったばかりのサロンで髪を切ってもらう。今回も破格。カリスマなのに。カットの腕はもちろんだけど、彼の言葉には不思議な影響力があるように思われ、助言というかアドバイスを、非常に素直に受け留められてしまう。

ケーキ2個で微妙な腹具合ではあったのだけど、サロンからすぐ近くの「LOTUS」へ。いかにも芸能人がよく出入りしてそうな雰囲気。食事もスタッフの対応も「良過ぎず、良」くて、通うほど居心地がさらに良くなりそうな。でもって本日3つめのケーキを。来年のイヴくらいまでケーキはもういいです。嘘だけど。
ash pendant
今日から出勤。帰りにハンズに寄って、「ash pendant」を買った。「ash=灰」ということで、父の遺灰を入れるため。いつも肌身離さずとは思わないけど、旅に出るときや、何かしら大きな出来事に直面したときには、首にかけようと思って。皿が峰、鳥海山はもちろん、今後山に登るときは必須だろう。幸運を呼び込むとか、身を守ってもらおうとか、そういうことよりも心の支えになってくれればと願って。でもまずは、分骨して持ち帰った小さな骨壷を開ける勇気が必要。
ただいま
souginohi.jpg
葬儀を終えて帰京後すぐにmixiに書いた日記を、加筆修正の上で転載しようと思っていたのだけど、父の死から約一ヶ月。落ち着きも日常も取り戻しつつある昨今、余計なことを書き加えてしまうのもなんだなと思い、必要箇所以外は敢えて修正などしないことにした。


深夜バスに乗って、今朝早く東京に戻ってきた。
ゆっくりと明けゆく東京の空は、狭くて低いけど、不思議と懐かしい気がした。

2日の夜、姉からの電話に嫌な予感がした。
帰宅直後に、三十年近くも故障しなかったテレビがついに壊れ、15万キロも走行した車の悲鳴が止まなくなり、玄関のドアも急に閉まりにくくなったり、桜草の鉢も割れたりして、悪い予感を打ち消しても、打ち消しても、次々とそういうことが起こった。

病名は、「特発性間質性肺炎」。とは言っても、普通の肺炎とは異なる。肺炎は感染によって肺胞内部が炎症を起こすのだけど、この病気は、何らかの原因によって肺胞の外枠部分が炎症を起こす病気。

本人でさえ「どうしてこんなことになってしまったんやろのう…」と理解に苦しむほど、特発的な病気で、病状は日を追う毎に悪化し、十日間の激闘の甲斐なく、父はこの世を去った。

何年も苦しむ人に比べれば、十日間なんてあっという間だと思うけど、せっかちな父にとっては、充分長く、苦しい闘病の日々だったと思う。普段から山歩きなどで身体を鍛えていたせいで、とても77歳とは思えない超人的な体力は、医師たちも驚愕の声をあげていた。でもそのせいで、苦しみが長引いてしまったのは、本人にとっては皮肉なことだったかもしれない。

最期の日、既に意識はなかったのだけど、酸素マスクをつけた父の流した一滴の涙と、いつの間に入り込んだのか、ベッド脇のテレビの上から、糸を手繰ってするすると天井に登っていった小さな蜘蛛が、ちょうど父の頭上付近で、そのときを待っているかのようにじっと動かなくなったのが印象に残っている。

「延命措置は行うな」「葬儀・戒名・一切の法要も無用のこと」「仕方なく香典を戴くことになった場合は、然るべきところへ寄付すること」というのが父の遺志。遺される人間への、最大限の配慮だと思う。完璧に遵守することは難しい部分もあるけど、父の気持ちをできるだけ汲んであげたい。

という思いはあったのだけど、実は早々に父の遺志に反することを、通夜の席でしてしまった。

父は常に小さな手帳を持ち歩いていて、忘れてはいけない日々のことなど書き記していた。車の助手席で父がそれを捲る度、毎度耳の痛い説教が始まってしまうので、自分としては少し疎ましい手帳だったのだけど、父が亡くなる直前に、失敬して読ませてもらった。

表紙を捲った1ページ目に、恐らく晩年の父のモットーだったであろう

「一生懸命、いいかげん」

という言葉が記されており、いきなり目頭が熱くなった。他にも、一緒に山を登る途中に口にしたことはあったけど、結局本人には伝えないまま逝ってしまった母への、「自分と結婚してくれた軽率さに感謝。そして50年間ありがとう、すまなかった」という言葉。そう、来年3月で金婚式だったのに…。

その手帳の中に、父が創作した戒名が走り書かれていた。戒名不要と言いながら、自分なりに考えてみたりしたようだ。

「愚良院愛花愛山居士(ぐりょういんあいかあいざんこじ)」

因みに「良」は、父の名前に含まれている一文字。先日の日記でも少し触れたけど、父は花と山を、こよなく愛した人だった。ふざけて作ったにしては語呂もいいし、よく出来ていると思う。だから、父の遺志に背くことにはなったけど、家族親戚一同の賛成を得、葬儀屋さんの協力も戴いて、ちょっとした位牌にその戒名を書いてもらい、通夜の間だけ、父が育てた花と一緒に供えることにした。そして、遺体とともに、荼毘に付すことに。

死亡時刻や、間に友引が入った関係で、亡くなってから通夜、葬儀までの間にぽっかり一日時間が空いた。叔父の厚意で、少し外の空気を吸わせてもらうことに。天気がよかったので、双海の夕陽を見に行った。海に沈む真っ赤な夕陽。そして振り返れば、切り立った山のそばに満月。なんとも美しく暗示的なシンメトリーに、声を失った。

通夜では喪主を務めた。これも父の遺志で、お坊さんも呼ばず、本当に質素な通夜だった。父が大好きだった「ロシア民謡」と「加藤登紀子」の曲を流しながら故人を偲び、最低限の短い挨拶を一言二言。でも、葬儀社の女性は「こんな素敵な通夜は初めてです」と言ってくれた。納棺の際には、ほぼ全冊揃えていた藤沢周平の著作から数冊と、お気に入りだったイタリア製の帽子、登山靴なども一緒に。あっちにも、美しい山がたくさんあるといいのだけど。

通夜から降り出した雨は、翌日にはすっかりやみ、雲ひとつないとは言わないまでも、紅葉の山々に囲まれた火葬場の空は、どこまでも高く、澄み渡っていた。

骨を拾い、すぐ近くのお墓に納骨に。遺言通り分骨してもらったので、年末か、来春にでも、「皿が峰」の麓に父が植えた、ライラックの木の根元に散骨に行こうと思う。ライラックは母の大好きな木で、「皿が峰」は父が一番よく登った山。

あとは、今夏天候不順で結局登れなかった山形の「鳥海山」へも散骨に行こうと思う。父が苦しみながらも最後まで生きる気力を保ち続けられたのは、回復して、息子と「鳥海山」登るのだという望みを捨てずにいたから。生前には果たせなかった約束。でも必ず連れて行くから。父の憧れの山、「鳥海山」。

それにしても、日常なんて、あっけなく、あっという間に壊れてしまうものだ。先月は「皿が峰」に登ったらしいし、先々月には西日本最高峰「石鎚山」の登頂を果たしたというのに。親父の背中に話しかけながら、山を登ることはもう叶わない。まだまだ聞きたいことが、山ほどあったのに。家にも庭にも車にも、父の面影がいまだ色濃く残っている。耳をすませば、今にも父のよもだな伊予弁が聞こえてきそうなのに。こんな中で一人暮らしていかなければいけない母を想うと、胃がキリキリと痛む。

父急逝の報せを聞いて、親戚連も、近隣の住民たちもが号泣していた。父がいかに慕われ、愛されていたのかが、改めてよく分かる。彼らはきっと母の支えになってくれると思う。だけど、憎まれ口を叩く相手はやっぱりもういないわけで。でもどうか、父のことを想って弱くなったり悲しくなったりするんじゃなくて、父を想って強く優しくなれますように。時間はかかると思うけど、いつかきっとそうなりますように。

親不孝街道を突っ走り、孫の顔どころか、結婚すらしていない自分。親孝行、したいときにはとよく言うけれど、あまりに急過ぎるよ。

東京の父と慕ったFさん、Kさんが相次いで亡くなり、今度は実の父まで逝ってしまった。まともに褒めてもらったこともなく、いつかきっと見返してやろうと思って頑張ってきたのに。

昨日は、帰京直前の短い時間だったけど、母と姉と、父の若かりし頃の写真を見ながら、父を偲ぶことができた。職場で何人もの女性ファンがいたという青年期の彼は、確かに格好良く、労組の長として「天皇」とまで仰がれた彼の顔は、自信と活力が漲っていた。父のように誠実に、実直に。そんな生き方を貫き通すのは、簡単なようで、実はとても難しいこと。だからこそ誰もが彼を尊敬したし、息子として父を誇りに思う。

今、死をとても身近に感じる。だからこそ、今までよりももっともっと、一日一日を大切に生きなければ。人は人によって支えられている。だからこそ、今までよりももっともっと、強く優しくならなければ。そんな当たり前のことを、今更ながらに思うのだ。改めて。
ちっちゃいお客さま
土曜の夜からウチで寝泊りしているロングコートチワワ。
meru1.jpg
名前は「メルシー」。桃園文庫の看板犬。
meru2.jpg
まだ産まれて3ヶ月の赤ちゃんだけど、魔性系。
meru3.jpg
ブラックタンの仔にハマってた時期もあったけど、コイツもめちゃくちゃカワイイ。

今日から12月ということで、職場でもクリスマスツリーを出しました。
lxmas.jpg
毎年ツリーの飾り付けは独占担当だったのだけど、それも今年で最後。毎年買い足してオーナメントも結構豪華。クリスマスが終わったら譲渡してもらえないだろうかと画策中。
プロフィール

ryuu

Author:ryuu
Welcome!!

カレンダー
11 | 2008/12 | 01
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31 - - -
最近の記事
最近のコメント
リンク
フリーエリア
RSSリンクの表示
ryuu73
    follow me on Twitter
    月別アーカイブ
    カテゴリー
    ブログ内検索
    QRコード
    QR
    上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。